金銀糸(きんぎんし)の歴史

南山城の金銀糸製造は、幕末期に淀藩の下級武士の妻女の手仕事として始まり、明治に入ってからは農家の副業として発展しました。特に城陽の中心部にある寺田近辺は、湿気が多いことから「撚り糸」に適した土地柄といわれ、大正期に入って撚糸機の導入により生産量が増加し、寺田以外でも活況を呈しました。
金銀糸が始められたころは、良質の和紙に漆を塗り、金銀箔をはり合せ、細かく切って芯糸と撚り合わせていました。この製法は「箔押し」といい、完全な職人の手作業で熟練を要する技法で、現在は、本金や純金の高価な金銀糸を作る場合に行われます。
戦後、技術改革によって金銀糸業界は大きな変化と発展をとげ、昭和35年頃から、真空タンク内で、ポリエステルなどに銀やアルミニウムなどを溶かして蒸発させメッキするという「真空蒸着法」が実用化されました。この製法によって、金銀糸の生産量は飛躍的に伸び、需要も多様化しました。
現在では、生産工程が細かく分かれ、蒸着フィルムに色をつける「着色」、アルミをメッキしたフィルムを細く裁断する「スリッター」など市内で全ての工程を行っています。このようにしてつくられた金銀糸は、国内では京都の織物で有名な西陣を中心に丹後や新潟県十日町、群馬県桐生市などの機業地に出荷され、海外ではヨーロッパや中近東、東南アジアなどへも輸出しています。